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その森の「大人たち 」/椹木野衣

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椹木野衣

その森の「大人たち」

ホンマタカシ「その森の子供 mushrooms from the forest 2011」展

画廊に入ると、奥に細長い空間の両側に、キノコとそれが自生していたと思われる森の写真が、たがいちがいに並べられている。突き当たりはガラス張りで、冬の早い日暮れ後に訪れたせいか、深く暗い森への入口のように見えなくもない。実際、被写体となった森は、原発事故による放射能の拡散で高濃度の汚染が見つかり、野生のキノコを食することが禁じられているのだという。

すぐに思いつくのは、キノコの形状と原発事故で空高く舞い上がったキノコ雲の連想だ。原発だけではない。過去、大気圏内で爆発した核兵器は、例外なくキノコの形状をしていた。キノコ雲と呼ばれるゆえんである。

いずれにせよ、あの震災以後、僕らはキノコを以前のように眺めることはできなくなった。なにしろ、キノコによる放射能汚染は桁違いなのだ。以前、放射線被曝の研究者、木村真三さんのレクチャーを受けたとき、チェルノブイリ近郊でキログラムあたり億単位のベクレル汚染が見つかったという話を聞いた。いかなるメカニズムかはわからないが、どうやらキノコは、放射能を特別に濃縮する媒体になっているようなのだ。

他方、キノコはかたちが男性器によく似ていることでも知られている。展示を見るかぎり、今回も、そのことは明確に意識されているように思われる。つまり、これらの写真の前に立つとき、僕らはそこに、「キノコ」と「核爆発」と「男性器」という、三つの異なる属性を重ねて見ることになる。

もっとも、キノコとキノコ雲の形状の類似が偶然としても、キノコ雲と核爆発の関係はそう簡単に片付けられない。核兵器を開発したのはまぎれもなく男たちであり、事実、彼らの支配欲や破壊衝動、戦争での敵の殲滅のために核は開発された。その究極的な破壊の結果が、かくもあからさまに勃起した男性器を思わせるのだ。たまたま、と思えるはずがない。

いま書いてきたことを念頭に入れれば、会場の入口に貼られている展覧会タイトル「その森の子供」に、なぜだか横線が引かれ、言葉の意味が打ち消されているのもわからないではない。震災以前、キノコは「その森の子供」だったかもしれないが、いまではもう、「その森」を汚染した「大人たち」による権力の崩壊の似姿となった。とうてい、もう無垢ではいられない。いわば、キノコは勃起した男根で森を陵辱する、恥知らずな男たちの象徴となってしまった。

にもかかわらず、かくも過酷な悲劇と汚染のあとでも、キノコには未知の領域が残されている。僕らがこの展覧会を通じて見抜かなければならないのは、実は、こうした象徴的な読解を経てなお、その向こうに残る「キノコとはなにか?」というストレートな問いだろう。キノコの形状をこれまで以上によく見て、森でセシウムを吸い上げる、その不可解で無慈悲なメカニズムへと想像力を充ててみることだ。

あるいは、さらに飛躍すれば、カメラの形状そのものがキノコのようではないか。あらゆるイメージを吸い上げて濃縮するカメラは、どこかキノコのように不定形で不気味な感触を備えて、ニョキッとレンズを生やしている。

 

PROFILE
さわらぎ・のい 美術批評家。
1962年生まれ。
主著に『日本・現代・美術』、『戦争と万博』。
近刊に『反アート入門』。

Written by tomo ishiwatari

2012/05/04 at 19:08

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