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「落ちない流れ星・夏の思い出・朝青龍」

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過去にホンマが執筆したテキストを紹介するコーナーです。こちらは2003年に発行された、中平卓馬さんの展覧会*1図録に収められた文章です。

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落ちない流れ星・夏の思い出・朝青龍   ホンマタカシ

台風が来ていた。羽田空港のカウンターは乗客でゴッタがえしていた。
「あらかじめご了承お願いします。当機は悪天候により東京に引き返す可能性があります、そのさい鹿児島空港にて給油ののち東京に戻ります。タイヘンオマタセシテモウシワケゴザイマセン」
その日沖縄行きの飛行機が朝から欠航していた。なんとか1時間遅れで沖縄に向かった全日空89便は南に向かうにつれ大きく揺れ、その揺れは着陸のときに最高潮になった。真っ黒の雲に飛行機が突っ込む。前の席の子供が泣いた。ガクンと飛行機が地面でバウンドした。拍手をする乗客。レンタカーを借りてホテルに向かう、雨はやんだが風はまだまだ強かった。

ぼんやりとシンポジウムを観ていた。「写真の記憶、写真の創造、東松照明と沖縄」シンポジウムというにはあまりにも予定調和な内容だった。「写真というのは時間を殺す作業なのだ、そして見るヒトがそれを生き返らせるのだ」と東松照明さんの基調報告を受けてのシンポジウムだったが、それは第一部で沖縄の写真家が図らずも言った「東松さんの敬老みたいなもん」だった。ボクはアクビをかみ殺していた。

しかし我らが中平卓馬には“お約束”は通じなかった。しきりにタイトル「写真の記憶、写真の創造」を指さし「写真っていうのはメモリーとかクリエーションじゃなくてドキュメントなんだ。アメリカ語を使えばね」「それでアラキさんはどう沖縄を考えて来てるのか?」

などとアラキさんに詰め寄る。アラキさんは慌てて立ち上がり「きのう一緒に踊ったじゃない」――そうきのうの夜は那覇市内の民謡バーで中平さんとアラキさんは仲良く沖縄しゃみせんに合わせて踊っていた。中平さんはご機嫌だった。そんな中平さんを見てアラキさんは言った。「中平さんは落ちない流れ星だよ、ふつう流れ星って落ちるんだけど、このヒトいつまでも落ちないでグルグル回ってるんだよー」

中平さんヒトリ沖縄と琉球の問題を「これは大事な問題だから……」と議論を続けようとする。しかし時間が来てコーディネーターが適当に話をまとめて無事終了と思いきや地元のアナウンサーのおばさんがうっかり中平さんにマイクをふってしまう。中平さんはアナウンサーが「握手しましょう」というのを振り切ってマイクを奪い。

「幸せになるまでやる」
「創造だけによって世界は変わるわけない」
「……する覚悟で来てるんだ!」

中平さんは壇上から聴衆にマイクでアジテーションする。これか! 70年代にあの元東大総長の蓮実重彦をも論破した中平さんのパフォーマンスの片鱗を見た気がした。これがあの政治の季節なら鳥肌がたつほどの事件になり伝説化されたかもしれない。しかし残念ながら今は2002年、聴衆は何事かと中平さんの周りに集まるが、緊張感はない。笑いながら写真を撮ったりしている。東松照明さんはニタリと笑ってそんな中平さんを見ている、アラキさんはクルっときびすを返して退場しようとしている、森山さんの姿はすでに壇上にはない、サスガだ。中平さんはその後なにごとが吠えながら会場から飛び出して行った。慌てて追いかける。興奮して倒れちゃうんじゃないか?  と心配になる。しかし駐車場に元アシスタントの中川さんと立っていた中平さんは少し笑いながらタバコを吸っていた。「あーどうもねー」。いつもの口癖だ。ちょっと拍子抜けしたが、なんかスゴク愉快な気持ちになった。

――1971年、新聞に掲載された一枚の写真によって警官殺害の罪に問われた青年を救出するために、初めて沖縄に行った。現在住む横浜に越してきて間もない頃のこと、沖縄出身の電気屋さんが、プレーヤーの修理に来てくれた。喜納昌吉とチャンプルーズの「島 小ソング」を聴かせたところ、彼は「これは大昔の歌ですよ」と言った。だが、私、彼の言葉は真実だろうかと新しく考え始めた。確かに1977年に記憶を失った私の沖縄は、1970年で止まり、私、その固定観念にこだわっているのかもしれない。だが、私、あえて自ら引き受けざるを得ない問題を引きずりつつ、2002年に沖縄に行って撮影し抜くことを考え始めた。沖縄県人なのか、琉球人なのか! そして“琉球”はもうなくなり、沖縄は日本最南端の一地方になってしまったのか。その一点を考え始め、私、カメラを持って沖縄に出発します!――(中平卓馬「フォトネシア/光の記憶・時の果実」展カタログ)

沖縄最後の夜。那覇市内のサムズマウイステーキでサムズカット250グラム・コロナビール・エスカルゴ・カレースープ・バナナケーキ・ガーリックライス。酔っていい気持ちでそとに出ると台風はあとかたもなく過ぎ去っていた。

―――――

――最も日盛りの夏の午後二時頃、中平とぼくは炎天下の逗子駅(まだペンキ塗りの旧駅舎だった)前のバスロータリーで待ち合せて、海岸廻り長井行きのバスに乗り、連日のように長者ヶ崎の岩場へ行くのだった。――(森山大道『犬の記憶 終章』)

中平さんと海に行った。8月31日夏休み最後の日。愛車ビューイックに16ミリの機材と6人乗ってパンパンで横横道路をぶっ飛ばして鎌倉は長者ヶ崎に。海の家は今日が最終日、メニューにはあるのにカレーは残るからなくて、中平さんはイチゴ味のかき氷(500円)。潮見表によると今日は午後2時から3時にかけて潮が引いて中平さんのお気に入りの岩場に歩いて行けるはず。のんびり畳に寝ころんだりしてたんだけどいっこうに潮が引く気配がない。おばちゃんに「2時に潮が引くはずなんだけど」と聞くと「今日は大潮だからたいして引かないよ」とアッサリ。がーん、まずい。今日は16ミリ一式助手入り(36750円)で借りて来たのに。とりあえず全員ビーチサンダルを買う(700円)。ボートを借りようとあちこちに交渉するが断られる(夏休み最後だから店じまいが早いらしい)。そうこうしてる間に3時になる。崖つたいに機材を担いで歩いてみる、思ったより波が高く助手の人が「機材屋に怒られるからダメです」とクレームがつきもう1度海の家に引き返す。あれ中平さんは?  ふと見ると中平さんは一人で崖つたいにヨロヨロとヒザまで海につかって岩場を目指して歩いている。「あー危ないよう」、慌てて中平さんに追いつく。そのとき足をついた岩がぬかるんでいてステーンとボクが転んでしまった。手に持っていた携帯電話がポーンと海に放り出された。あーーーー。まあいいや。中平さんは転んだボクを一瞥してニャっと笑いスタスタ砂浜を横切り草むらのトンネルの中に入って行った。うちのアシスタントの竹内(細眉)が漁船の人に交渉している。「このカキ落とす作業手伝ってくれたらいいよ」。「じゃあやっといてー」。ボクは中平さんを追いかける。草むらのトンネルを抜けると太平洋に向かって岩場が広がっている。中平さんが昔から潜って遊んだ岩場だ。中平さんはヒョイヒョイ跳ぶように岩場を歩いてときおりカメラのファインダーを覗いている。だいぶ陽が傾いてきた。カキの作業が終わって機材を急いで漁船に積み込む。30分後に迎えに来てもらう約束をして岩場まで送ってもらう。もう4時を過ぎでいた。16ミリをセッティングする。中平さんは頼んでないのに足首まで海に入ったり遠くに向けてカメラを構えたりしてくれた。そして波打ち際の岩に腰をかけて座わり遠く水平線のかなたを見やった。

――所定の岩場に着くと、何はさて置き波間に飛び込む。もともと中平は、顔つきや身体つきが華奢な魚を想わせるので、その彼が足ヒレを付けてスイスイ潜水するさまを同じく海中から眺めていると、それはまさに敏捷な魚類以外のなにものでもなかった。(略)そして、いよいよぼくが持参の、数種の写真雑誌の出番となり、それぞれ任意のページを開いてはもうのべつ幕なし、二人で片っぱしから、あらゆる写真家を俎上に載せては、言葉の血祭りに上げるのだった。――(森山大道『犬の記憶 終章』)

8×10でも数枚撮影。太陽がはるか遠く駿河湾の方向にギリギリ傾いた。光が波にキラキラ反射して中平さんがシャドウになった。漁船が迎えに来る時間になった。大急ぎでカメラを担いで草むらのトンネルを抜け漁船に飛び乗る。みんな疲れてへたり込む。中平さんは空をみながら上機嫌に「ふ、ふん、ふんふん」と鼻歌を歌ってる。急に中平さんが反対側を指さして「あそこでも撮影してるね」という。みんなで振り向くと砂浜から離れた沖合にある小島で太ったアマチュア(たぶん)カメラマンがハイレグのねえちゃんを大股開きで激写中だった。一同疲れを忘れて爆笑した。そのせいで船がグラっと傾いた。

数日後、中平さんの家の居間で大福とお茶をいただく。中平さんはいつもどおり赤いボールペンで“短い希望”ショートホープの箱になにやらメモしている。「すすき逆光撮影可能!」。新聞のテレビ欄にはすでに赤く線が引かれている。N響アワー、のど自慢、大草原の小さな家、横浜ベイスターズ対読売ジャイアンツ……

テレビでは朝青龍が小さな力士を俵に足をかけながら首を押さえて土俵下に突き落としていた。

(ほんま・たかし 写真家)

初出:中平卓馬『原点復帰-横浜』(2003年10月発行)

*1 2003年10月4日から12月7日まで横浜美術館にて開催された『原点復帰 – 横浜 中平卓馬展』のこと

Written by manami takahashi

2011/02/28 at 17:00

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